【ネタバレ解説】スターウォーズ・エピソード9『スカイウォーカーの夜明け』満足でも「違う、そうじゃない」感じてしまう理由を考察
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マーベル・シネマティック・ユニバースとの対比で見えてくるもの

“続3部作”である『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』『スカイウォーカーの夜明け』を振り返ると、改めて『アイアンマン』や『アベンジャーズ』をはじめとするマーベル・シネマティック・ユニバースの“統制”に感心するところがある。
マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群は、高い評価を得た映画を世に送り出した新進気鋭の監督を抜擢しており、それぞれで監督の作家性もしっかり押し出された内容になっていた。さらに、シリーズを通しての矛盾やキャラの性格の“ブレ”がないように、細心の注意が払われていたように思う。これは、ケヴィン・ファイギというプロデューサーがシリーズ全域を見渡せていたおかげでもあるのだろう。
対して、『スター・ウォーズ』シリーズにはそうした“統制”はできていたのだろうか?という疑問もどうしてもつきまとう。前述した“舵取り”や、『最後のジェダイ』でファンからの反感が多かった(演じているマーク・ハミルからの不満もあった)ルーク・スカイウォーカーのキャラの変化、フォースの今までになかった使い道などの様々な“ひっくり返し”だけでなく、幾度となく行われた“監督の交代劇”もその理由に挙げられるだろう。
具体的には、スピンオフ作品の『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』ではフィル・ロード&クリス・ミラーという『LEGO ムービー』などで知られる監督コンビが途中で降板し、『ビューティフル・マインド』などのロン・ハワードへ監督のバトンが渡された。今回の『スカイウォーカーの夜明け』も(まだサブタイトルも発表されていない時点で)『ジュラシック・ワールド』のコリン・トレヴォロウが監督を離脱し、代わりに『フォースの覚醒』のJ・J・エイブラムスが再登板することになったのである。
もはや、なんとなくの印象ではなく、事実としてディズニーに権利が売却されてからの“続3部作”(とスピンオフ作品)には、“製作上のドタバタ”がある。それが透けて見えてしまうというのが、この『スカイウォーカーの夜明け』の苦しいところだ。
褒め称えたい部分も多いが「違う、そうじゃない」な結果に
改めて、『スカイウォーカーの夜明け』は、掛け値無しに褒め称えたい部分が多い作品だ。
視界いっぱいを埋め尽くす“応援”の画(今年のゴールデンウィークに公開された、とあるヒーロー映画とも被っている気がするが……)、レイアの死を嘆くチューイの呻き、Xウイング・スターファイターの再登場、チューイに(『エピソード4 新たなる希望』のラストでルークたちに献上されていた)メダルをあげるマズ・カナタ、そして戦いに勝利に抱き合う人々の喜びなど……やはり「物語の最後を見届けた」という満足感はしっかりある。何より、前述したように、ここまで大風呂敷を広げ、かつ混乱していた“続3部作”を、1つの形としてしっかり終わらせているというのは、それだけですごいことだ、とも思う。
ただ、個人的には「『最後のジェダイ』がファンに怒られたから元の路線に戻す」というものではなく、今までの『スター・ウォーズ』にはなかった斬新な物語、もしくは今までの『スター・ウォーズ』にあったセンス・オブ・ワンダーに溢れたフレッシュな作品を求めていた……というのも正直なところだ。「熱心なファンへの忖度」や「製作上の都合」が見えてしまうのは致し方ないかもしれないが、おかげで物語そのものを純粋に楽しみにくくなってしまっている。
個人的に『スカイウォーカーの夜明け』には、鈴木雅之のシングル曲よろしく「違う、そうじゃない」という感情も抱いてしまった。
ファンからの意見を踏まえて反省し、フィードバックをして、次回作に生かすという気概は、それ自体は言うまでもなく正しく尊い。しかし、ここまでの“急激な舵取りの連続”は、結果的に“続3部作”をいびつな印象にしてしまい、誰の目にも製作上のバタバタがあった(それが本編の物語をバタバタと風呂敷を畳んで終わらせている印象そのもの)と伝わってしまう結果にもなってしまったのだ。おかげで、「しっかり物語を終わらせてくれて、見たいものを見せてくれて、本当にありがとう!」という感謝と、「ファンからの期待に応えるっていうのは、そういうことじゃなかったはずなんだけどな……」という、アンビバレントな気持ちにもなってしまうのだ。
『ピープルVSジョージ・ルーカス』からでもわかる「大嫌い!大嫌い!大嫌い!大好き!」な『スター・ウォーズ』
それでも、筆者は『スカイウォーカーの夜明け』を含む『スター・ウォーズ』シリーズが大好きだ。綺麗事または欺瞞にも聞こえるかもしれないが、こうやって「文句を言う」を言うことも、このシリーズに捧げる愛情の裏返しなのだ。
その「文句をたくさん言っているけど、実は大好きなんだよ!」な『スター・ウォーズ』ファンの心情は、ドキュメンタリー映画『ピープルVSジョージ・ルーカス』でもよく表れている。
この『ピープルVSジョージ・ルーカス』では、初っ端から「私たち無能なファンがあなたの傑作に軽蔑を捧げる」「どういうわけかこの映画はやけに人を怒らせるんだよ」などといった、忌憚がなさすぎてオブラートが破れきっているファンの言葉が投げかけられている。
その後は、旧3部作を“特別編”として勝手に作り変えてオリジナルの“文化遺産”を残さないこと、大期待を持って公開された『エピソード1/ファントム・メナス』への酷評の嵐、はたまた『スター・ウォーズ』のおかげで人生が狂ったことなどなど……大小さまざまなファンの怒りの声が、生みの親であるジョージ・ルーカスにぶつけられている。
しかしながら、この『ピープルVSジョージ・ルーカス』の映画全体の構成は、モーニング娘。の楽曲「サマーナイトタウン」よろしく「大嫌い!大嫌い!大嫌い!大好き!Ah …(歓喜)!」だったりもする(この文言はラジオ番組の「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」でリスナーから寄せられたものである)。
マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心」であるという名言を残したが、ファンによる『スター・ウォーズ』も同じようなものだ。文句を言うどころか憎しみの感情を覚えてしまうのも、『スター・ウォーズ』を愛して愛して愛して愛してやまないことの証明であり、せっかくファンの望む方向へ舵取りをしてくれたはずの『スカイウォーカーの夜明け』に、筆者がここまでの文句をつけている、やかましい物言いをしているのも、やっぱり愛があるゆえなのだと思う。
なお、J・J・エイブラムス監督は「ネガティブな意見にさらされることがこの作品に関わる代償なのだと言うならば、受け止めるよ」と批判に対して向き合う姿勢でいるも、「僕らはただ人々に娯楽を与えたいだけなんだ。自分たちにできる最高の形で、物語を語りたいだけ。それも、最高の意図をもってね」と、やはり最良のものを世に送り出そうとした気持ちも語っている。言うまでもないが、完璧な映画など、ましてや全てのファンを納得させ得る『スター・ウォーズ』などありえない。その中でも最良の答えを探し続けて、研鑽を続けた作り手たちに、心から尊敬の念を示したい。
振り返れば、「ここまでシリーズを追ってきて楽しかったなあ…ありがとう『スター・ウォーズ』!」になる。12月26日よりディズニーデラックスで配信されているドラマシリーズ『マンダロリアン』も素直に楽しみたいと思う。おそらく、文句も言いつつも……それこそが、『スター・ウォーズ』ファンらしいと思うから。

参考記事:
【SW先行インタビュー第1弾】J・J・エイブラムス、SW新作は「ショッキングで泣く人も…」 : 映画ニュース – 映画.com
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』監督、カイロ・レンのマスクを壊すのは「ちょっと怖かった」
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