【解説】『スター・ウォーズ』シリーズはなぜ愛され続けるのか?『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』を紐解きつつその理由を探る!
『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』はなぜ激烈な賛否両論を呼んだのか?

概ね好意的に評価・絶賛された『フォースの覚醒』に対し、続く3部作の第2部『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』の評価は賛否両論真っ二つとなった。
シリーズの常識を打ち破った快作と評される一方、シリーズのワーストに当たる駄作だとバッサリ切り捨てられることも少なくない。特に否定的な声は根強く、「『スター・ウォーズ』シリーズの正史から『最後のジェダイ』を除外させよう」という署名運動では、実に10万人分もの署名が集まることになってしまった。
なぜ否定的な声が強いのか? その理由は「展開に納得できないことが多い」ということが筆頭だろう。
主人公たち抵抗軍の行動が浅薄にも思えてしまうというだけでなく、超能力であるフォースの今までになかった使い道、英雄であったはずのルーク・スカイウォーカーのまさかの扱いなど、シリーズのファンこそが「今までのことが台無しにされてしまった」と不満を覚えるケースも多いようだ。
このような作劇になったのは、やはり“衝撃的な展開を重視しすぎた”結果だろう。「『フォースの覚醒』は前述した通りシリーズの原点に立ち返って『エピソード4 新たなる希望』に沿ったストレートな内容にしたから、今回は『エピソード5 帝国の逆襲』と同様に観客をとにかく驚かせたい」という気概を存分に感じられる。
しかし、物語をよくよく振り返ってみると、「こっちかと思ったらこっちだった」という短絡的にも思えてしまうどんでん返しも多く、「今までのは全部ムダだったのでは?」と悪い意味で悲しく思えてしまう展開があるのも事実だ。
それでも、筆者個人としては『最後のジェダイ』は好意的に評価したい。「今までのは全部ムダだったのでは?」と悪い意味で悲しく思えてしまう展開も、おそらくは概ね意図的なものであり、それこそがテーマの1つとも取れるからだ。
作中では、無為に終わってしまったかのようにも見える行動について、はっきりと「意味があった」と答えるシーンが存在する。この時点では悪く言えば“苦し紛れ”にも思える言説だが、(ネタバレになるので詳細は伏せるが)実際に目で見て「意味があった」とわかるラストシーンが待ち受けており、そこには「一見無為に終わってしまったかのような行動を肯定する」尊さがあったのだ。
衝撃的な展開が短絡的に思えるとも前述したが、予想を裏切るという意味で、やはり“その瞬間”では面白いと思えるものであった(後からよく考えるとやはり納得しにくくもあるが……)。今までのシリーズの設定やキャラクターの性格を愛していたファンから批判の声があがるのも致し方はないが、「シリーズの常識や概念を打ち破っている」ことを好意的に捉えられれば、『最後のジェダイ』を嫌いになれないかもしれない。
なお、『最後のジェダイ』における中盤の剣劇シーンは、迫力と神秘性、そして特異なシチュエーションも相まって評価が高い。
さらに、前作『フォースの覚醒』において良くも悪くも”中ニ病的”と評されてしまったカイロ・レンが、アダム・ドライバーの見事な名演もあり、格段に魅力を増したキャラクターとなったことも賞賛すべきポイントだ。悪し様に切り捨てられるには惜しい、(シーンごとに切り取れば)大いに評価したいところが出てくるのも、『最後のジェダイ』の特徴だろう。
多様性のあるキャスティングと新キャラクター“ローズ”への賛否
『フォースの覚醒』から『スター・ウォーズ』シリーズの配給会社は20世紀フォックスからウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズに変更となった。昨今のディズニーの配給・製作の映画では“現代的な価値観”や“多様性”が強調されることも多くなり、この『最後のジェダイ』も例外ではない、ということを記しておこう。
例えば、『プリンセスと魔法のキス』では王子様を待って結婚すれば幸せという旧態依然とした価値観ではなく、ヒロインは自身の店を持つことを目指す主体的な女性になっている。
『アナと雪の女王』では男女の恋愛よりも姉妹愛が強調され、『ズートピア』では差別・偏見を描きつつ多様性そのものの素晴らしさを訴えている。実写作品においても、『シンデレラ』ではアニメ版にはいなかった黒人の部下がいたり、『美女と野獣』では女装をしている男性が登場している。
『フォースの覚醒』においても、女性が主人公となり、敵であったはずのストームトルーパーが相棒になるなど、明確に“『スター・ウォーズ』の物語に参加できる”キャラクターの多様性が広がっていると言っていいだろう。
『最後のジェダイ』においては、ベトナム系アメリカ人の女優であるケリー・マリー・トランがメインキャラクターのローズ役に抜擢された。これまでの『スター・ウォーズ』シリーズにアジア系の俳優はほぼほぼ出演しておらず、スピンオフ作品の『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』でやっと香港のアクション俳優ドニー・イェンが出演したというほどでもあった。それ自体はとても喜ばしいことだ。
しかしながら、このローズというキャラクターも賛否両論を呼んでいる。終盤の彼女の役回りや行動に拒否反応を覚えてしまうのは致し方はないが、演じているケリー・マリー・トランのインスタグラムに容姿を侮辱する誹謗中傷のコメントが殺到し、アカウントの投稿を全削除するまでに発展してしまったというのは非常に遺憾だ。
言うまでもないが、彼女は女優として真っ当に役をこなしており、物語上での不満点や容姿への批判を本人に向けるなど筋違いも甚だしい。
これも個人的な感情になるが、ローズというキャラクターも肯定したい。彼女は元々ストームトルーパーの一兵士にしか過ぎなかったフィンを、”英雄”として尊敬した上で肯定する、とても健気かつ、勇気に溢れた、愛すべき性格であったからだ。
何より、(昨今のディズニーの)現代的な価値観や多様性を映し出す象徴として、彼女の存在は重要だったと信じたいのだ。

『スター・ウォーズ』シリーズで一貫して描かれた家族の愛と喪失とは
『スター・ウォーズ』シリーズは一貫して“家族の愛と喪失”を描いている。その家族とは単純に血を分けた家族に限らず、師弟間の強い絆、共同戦線を張る仲間たちを指している、とも言えるだろう。
『エピソード5/帝国の逆襲』で提示された“親子”における衝撃的な事実はもちろんだが、前日譚に当たる『エピソード1/ファントム・メナス』『エピソード2/クローンの攻撃』『エピソード3/シスの復讐』の“新3部作”も、“家族の愛と喪失”に至るまでの悲劇を丹念に追っていた。
さらに、“続3部作”の始まりである『フォースの覚醒』でも新たな“喪失”が起こり、それがあってこそ『最後のジェダイ』につながる“新しい世代に次のバトンを渡す”という要素も色濃くなっていた。
『スター・ウォーズ』シリーズはもちろん現実ではありえないSF作品であるが、愛している家族を失ってしまうのは、誰にでも起こりうる(必ず起こる)悲劇だ。言うまでもないことだが、年を重ねた者から“死”はやってくる。42年のも長い時を経てシリーズが作られ(リアルタイムで年を重ねたキャラクターが登場することも手伝って)、“家族の愛と喪失”のその先にある、“年老いた者が若い世代へ継承する”ことへの尊さも描かれるようになっている、と言っていいだろう。
ここにも、最新作『スカイウォーカーの夜明け』を観る価値がある。同作は合計9本の物語を締めくくる完結編というだけでなく、 “スカイウォーカー家の物語を描く最後の作品”とも銘打たれている。
前述したように、『スター・ウォーズ』シリーズにおける家族とは血を分けた家族に限らない。つまりスカイウォーカーという血筋の者以外の誰かに意思や価値観がさらに継承されていき、その先にある(昨今のディズニー映画らしい)多様性に満ちた家族の価値観が描かれるのではないか、と期待をしているのだ。
また、“新しい世代に次のバトンを渡す”という長いスパンをかけて連続していたシリーズの形こそが、世代を超えて愛される『スター・ウォーズ』という巨大なコンテンツそのものとリンクしているとも言える。やはり、ここまでのエンターテインメントは唯一無二と呼ぶにふさわしい。ぜひ、その意味でも『スカイウォーカーの夜明け』を劇場で目撃してほしい。

参考記事:
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