【解説】岩井俊二監督作品、映画『ラストレター』のあらすじと、映画を読み解く7つのポイント
映画『ラストレター』が公開中。映画を観た後にモヤモヤした気持ちを抱えた方へ

現在、『スワロウテイル』や『花とアリス』などで知られる岩井俊二監督の最新作、『ラストレター』が公開中だ。
本作は松たか子、福山雅治、神木隆之介といった豪華キャストが勢ぞろいしている他、絶大な人気を誇り実力も併せ持つ広瀬すずと、『天気の子』でヒロインの声を務めた森七菜が、“過去”と“未来”それぞれで1人2役を務めていることも目玉となっている。
そして、複数の登場人物の間で手紙がやり取りされる設定はやや複雑であり、良い意味での「この話はどこに向かっているんだろう?」と思ってしまうほどの捉えどころのなさ、雲をつかむような話運びでもあるため、映画を観た後にモヤモヤした気持ちを抱える方も多いかもしれない。
ここでは、そのモヤモヤを少しでも解消できるかも、またはもっと面白く観られるかもしれない、作品の解釈について書いていこう。
1:“死”から始まり、尊い“願い”へと昇華させていく物語

この『ラストレター』のあらすじは、亡くなった姉の未咲の代わりに同窓会へ行くことになった主婦の裕里(松たか子)が、その未咲と勘違いされてしまったうえ、初恋の相手であった小説家の鏡史郎(福山雅治)と再会し、未咲のふりをして彼と文通を始めるというものだ。手紙は未咲と裕里それぞれの娘たちをも巻き込み、2つの世代の時間が動き出していくことになる。
結論から記すと、この『ラストレター』は、手紙や小説というモチーフ、過去と未来の2つの世代を描くことにより、“不在の(亡くなった)人を物語る”ことの意義を問い、また“伝えようとする意思”の尊さを説いた作品だ。
実際に、劇中では「誰かがその人のことを思い続けたら、死んだ人も生きていることになるんじゃないでしょうか」というセリフがある。ここだけを切り取れば、「気休めにもならない」「そうは言っても死んだ人には会えないし死んだという事実は変わらないだろう」などと、むしろ死という残酷な事実を覆せない虚しさのほうが際立ってしまうかもしれない。
しかし、この『ラストレター』では、“亡くなった姉のふりをして手紙を書く”であったり、“昔の恋人との関係を小説にしたためていた”や、“未来には亡くなった姉とその妹それぞれの娘がいる”といった様々な要素を通じて、このセリフが真に迫る、尊い“願い”へと昇華されていく、そこにこそ大きな感動がある作品であったのだ。以下から、順を追って解説していこう。
2:手紙は、“すれ違い”も起きるが、“形として残る”ものである

この『ラストレター』では、様々な“すれ違い”が描かれている。過去のエピソードにおいて、手紙を読んでほしかった人には届かない、おかげで伝えたい想いが伝わらない、そのために好きな人と一緒になれなかった、という切ない事実が露呈していくのだ。
面と向かって直接話すのではない、すぐにメッセージを送ることができる現代のLINEや、世界中に気軽に発信ができるSNSとも違う、手紙(ラブレター)というコミュニケーション方法を選んだことが、そのすれ違いを生んだという、ある意味で残酷な作劇になっているとも言えるだろう。
しかしながら、本作では“形として(未来へ)残る”という手紙の特性を、尊いものとしても描いている。ネタバレになるので明確には書かないでおくが、ラストシーン近くで届いた“返事”は、“未来に宛てた手紙”でもあったのだ。
この“すれ違い”も起きるが“形として残る”という二面性は、手紙ならではのものだろう。ある事象に対して、美しさと残酷さの両面を描くというのは岩井俊二監督の真摯な作家性であり、それを“手紙”に託したのが、この『ラストレター』なのだ。
また、“形として残る”ものには、手紙だけでなく、死んだ姉の娘と、その従姉妹(自分の娘)もいる。広瀬すずと森七菜が1人2役で若かりし頃のそれぞれの母と、現在のその娘たちの両方を演じたことにより、「過去のことが今に繋がっている」という実感にも繋がっていた。彼女たちが本当に愛おしく、今の選択があってこそ彼女たちが存在するという事実が、(過去でのすれ違いがあったとして)未来への希望そのものを示しているというのも、とても素敵だ。
3:「こうであったら良かったのに」という“IF”を描く

岩井俊二監督のさらなる作家性として、ほぼ一貫して「こうであったら良かったのに」という“IF”を描いているということがある。
少年たちの一夏の冒険を描いた『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか? 』では実際にそのIF(もう1つの選択の結果)”が展開していたが、それ以外の作品では望まない選択をしてしまい、そのIFは現実にはならないという、残酷な事実を突きつけることが多い。主人公が地獄のような経験をする『リリイ・シュシュのすべて』や『リップヴァンウィンクルの花嫁』が特に顕著だ。
この『ラストレター』においても、裕里(松たか子)が、かつての恋の相手であった鏡史郎(福山雅治)に、「悔しいなあ…あなたが(死んだ姉の未咲と)結婚してくれてたら…」と涙ながらに口にするシーンがある。どうあっても、過去の選択は変えられない、これは普遍的な事実だ。
しかしながら、前述したラストシーン近くで届いた“返事”では、どのような未来があろうとも、過去の思い出、その思い出が手紙に残されたことが、さらなる未来へ歩み出す力になると訴えられていたのだ。前述したように、愛おしい2人の娘の存在も、未来への希望そのものだろう。
誰もが大小なりとも考えたことがある「こうだったら良かったのに」という人生のIFについて、そのIFが叶わない現実でも、前向きになれるメッセージを訴えたこの『ラストレター』は、ラブストーリーという枠組みだけにとらわれない、究極の人間賛歌であると言ってもいいだろう。
4:手紙や小説、はたまた創作物で物語ることそのものの意義を示している

本作は、手紙や小説というモチーフを通じて、“物語る”ことの意義も示していると言っていい。
例えば、劇中で裕里は初めは自分の住所を記すこともなく、姉の未咲の名を語って夫婦ゲンカのグチのような内容の手紙を一方的に鏡史郎に送りつけていた。しかし、彼女はやがて「お姉ちゃんのふりをして手紙を書いていたら、お姉ちゃんの人生がまだ続いているような気が、ちょっとしました」と告げることになる。つまりは、裕里は意識的にしろ無意識的にしろ、返事が来ることよりも、手紙を書くことで“姉が今も生きている”感覚を得ることが目的化していた(実際にその感覚を得た)とも言えるのだ。
一方、鏡史郎は未咲が死んだという事実を知らなかったが、その昔に「未咲」というタイトルのほぼ自伝的な小説を書き、未咲(実際に読むのは裕里と末咲それぞれの娘)に向けて過去の自分たちの思い出も語っていた。彼は「なかなか彼女(未咲)の幻から抜け出せなくて…」とも口にしており、裏を返せば“未来(現在)”の未咲に向き合えずにいた、過去しか見ることができないでいたのだ。
その鏡史郎に対して、豊川悦司演じる未咲の元恋人は、心のない言葉を吐いてしまう。(こうした悪意を噴出させる人物がいるのも岩井俊二監督らしさであり、中盤に登場する“敬語は使うが言っていることが超失礼な子供達”も、世の中に偏在する悪意の象徴だろう)
そこでの“贈り物”という言葉は死者への冒涜にも聞こえてしまうものなのだが、最終的にはその“贈り物”が薄っぺらな言葉では表現できない、鏡史郎の人生において、囚われていた過去の思い出(を大切にしつつも)から脱却し、未来を歩むための意義のあるものへと転換していくのだ。
死んだ人のことを語っても死んだ人は生き返らないが、小説や手紙にすることで、その人の生きた証や、その人が今も生き続けていたら……という強い“願い”を形に残すことができる。そして、死者の物語に限らず、ありとあらゆる創作物(小説)や文章(手紙)は、往々にして切実な願いや希望を記すものだ。それを“伝えようとする意思”、その尊さを高らかに謳いあげていることも、本作の意義だろう。
なお、岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』も、創作物そのものの意義を見つめ直した作品であるとも解釈できる。詳しくは、以下の記事を参照してほしい。
次のページでは、映画ならではの“喪失感”や主題歌「カエルノウタ」の解釈についてを解説していこう。