【ネタバレ解説】スターウォーズ・エピソード9『スカイウォーカーの夜明け』満足でも「違う、そうじゃない」感じてしまう理由を考察

公開日:2019年12月27日

レイの出自のひっくり返しと、スカイウォーカーという姓の襲名について

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け場面カット
(C)2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

『最後のジェダイ』を“否定しにかかっている”とも言えるポイントで、個人的にもっとも気になったのは……同作においてレイは「名もなき人である両親から生まれ、カネのために売られた」という設定だったはずなのに、今回では「パルパティーンの孫だった」という根本を覆す設定に変えられたことだ。

矛盾がないように最低限のつじつま合わせがされているとはいえ、『最後のジェダイ』にはスピンオフ作品の『ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー』に続き、「(レイという)名もなき人がサーガに加わる」という魅力と尊さがあった、個人的にはここにも“続3部作”の意義があると感じていたのだが、その期待が「やっぱり特別な血筋の者だった」と真っ向から否定されてしまったような悲しさを覚えてしまった。

これに付随してモヤモヤしてしまったのは、ラストのレイのセリフだ。彼女は老婦人にファミリーネームを聞かれ、「レイ・スカイウォーカー」と答えるのだ。

確かに、レイにとって両親を殺し銀河を危機にさらしていた巨悪であるパルパティーンは忌むべき名前だろう。しかし、レイを救ったその両親もまたパルパティーン姓であるのに、その名前をあっさりと捨て去ってしまうということに、少し後味の悪さも覚えてしまったのだ。パルパティーンの孫ではない、名もなき人の娘であったレイのままであったら、このようなモヤモヤは残らなかっただろう。

このラストのセリフは、「私はレイ・パルパティーン。ただし、ジェダイ(正義の守護者・勇者的な存在)の意思を受け継ぐもの」などであると、胸にストンと落ちたのかもしれない。その意思を継ぐ者としては、同じく”血筋”でもあるパルパティーンの姓を捨てるのではなく、シリーズで一貫していた概念“ジェダイ”のほうが適していたのでは……とも思ってしまうのだ。

とはいえ、このラストのセリフを肯定したいという気持ちもある。スカイウォーカーという姓はもはや“血筋”だけを指すのではなく、ジェダイと同様に意思を同じくした、“家族”を意味する概念へと変化したと捉えることもできるだろう。『スター・ウォーズ』シリーズは一貫して血筋の者だけとは限らない、多様な形の家族の愛や喪失を描いた物語であるため、その落とし所としては大いに納得できるのだ。

また、スカイウォーカーは『スター・ウォーズ』の生みの親であるジョージ・ルーカスが考えた、その物語世界だけに存在する架空の姓だ。ルークも、レイアも、カイロ・レン(ベン・ソロ)も亡くなり、その血筋が途絶えてたとしても、『スター・ウォーズ』を“象徴していた”スカイウォーカーという、英雄たちの名前だけは残り続ける……これは偉大なエンターテインメントの最終作として、確かに見事な帰着だ。

ローズの立ち位置の変化と恋愛ゲームの主人公のようなフィン

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け場面カット
(C)2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

前作への否定と言えば、『最後のジェダイ』で賛否両論を呼んだ……というよりも、多くの方から嫌われてしまった“ローズ”というメインキャラクターが、この『スカイウォーカーの夜明け』では戦いにほぼ参加せずに“待っている”という立ち位置になっているのも気になるところである。前述したジャー・ジャー・ビンクスもそうなのだが、ファンからの不満の意見を聞いてこのような扱いになったのでは……とどうしても疑ってしまう(個人的にはローズのことは大好きなのだが……)。

そのローズは、実は本作の前日譚を描いているコミック『スター・ウォーズ:去りし日の希望』ではなかなかの活躍が描かれている。本編の彼女の扱いに不満を覚えたという方は、読んでみてはいかがだろうか。

余談ではあるが、メインキャラクターのフィンのことを振り返ってみると、彼はもはや「恋愛ゲームの主人公か?」と思うくらいにパートナーをコロコロと変えて冒険している。『フォースの覚醒』ではレイと、『最後のジェダイ』ではそのローズと、この『スカイウォーカーの夜明け』では“ジャナ”という新キャラと、ちょっとずついい感じになっている。

そんなフィンの攻略対象には、その名前をつけてくれた“ポー・ダメロン”もいると言っていいかもしれない。今回では流砂に飲み込まれる前に何か(愛の告白?)をレイに言いかけたフィンに対して、ポーは「俺のいないところで言えばいいさ…」と明らかに“嫉妬”の感情を口にしている。今回のポーには“ゾーリ”という“恋人未満”的な立ち位置のパートナーもいたが、それよりもフィンとのブロマンス的なイチャイチャ(もちろんレイを含めた仲良し3人の活躍)をさらに見たかったというのは筆者だけではないだろう。

『最後のジェダイ』からさらに加速した問題も?

この『スカイウォーカーの夜明け』では、前述したように『最後のジェダイ』のファンの期待を裏切りすぎた内容を反省し、舵取りをしていると言うべき内容なのであるが、『最後のジェダイ』でのファンからの批判を集めたポイントが、継続して残ってしまっていると感じるシーンも多い。

例えば、『最後のジェダイ』でファンからの拒否反応が多かった「フォースがなんでも出来過ぎ問題」は、「輸送船という巨大な物を動かす(しかもパルパティーンのように電流を放って爆破する)」「ヒーリング能力まで有する(しっかり伏線を張り最期のカイロ・レンの行動にもつながっているが)」となり、さらに加速してしまった。

さらに「あっちだと思ったら実はこっちでした」な短絡的にも思えてしまうひっくり返しも、残念ながら健在だ。具体的には、「チューイが死んだと思ったら実は生きてました」「C-3POの記憶が失われたと思ったらあっさり戻りました(これは編集も含めて楽しいギャグになっているが)」「壊されたウェイファウンダーというアイテムはもう1つあったので大丈夫(序盤にもともと2つあることが明示されているが)」などだ。それぞれは“その時点”では確かに驚き、面白く見られるが、振り返ると納得しにくく感じてしまうのは『最後のジェダイ』と同じなのである。

さらに、レイが燃える宇宙船に向けて投げたライトセーバーをルークが受け取り、「ジェダイの武器には敬意を払え」と言うシーンも開いた口が塞がらなかった。「お前も『最後のジェダイ』の冒頭でレイに渡されたライトセーバーをポイッと投げてたやんけ!」とツッコまざるを得ない「お前が言うな」な迷シーンと化してしまっている。好意的に解釈するのであれば、ルークは『最後のジェダイ』でヨーダから「失敗こそが最高の教えなのだ」と告げられており、その自分がライトセーバーを無下に扱ったことを反省してレイに伝えようとしていたのかもしれないが……そうだとしても、わかりにくいことこの上ない。

おかげで、前述したように『最後のジェダイ』を否定しにかかっているところもあるのに、一方では『最後のジェダイ』に似た要素もバッチリと残っているため、その結果として『フォースの覚醒』のように“旧3部作”へ寄せた内容とも“ケンカ”してしまっているように感じる。このことが、「展開が詰め込みすぎてバタバタしているし強引に感じる」と言うネガティブな印象を、少なからず強化してしまっているのではないだろうか。

カイロ・レンのツギハギのマスクに隠された意図とは?

今回の『スカイウォーカーの夜明け』の本編で、製作者の声なき声を反映しているのではないか、という興味深いモチーフがある。それは、“ツギハギ”で修復されたカイロ・レンのマスクだ。

『最後のジェダイ』において、カイロ・レンはマスクを自らの手で何度も叩きつけて壊していた。このことについて、ライアン・ジョンソン監督は「彼の内面にもう少し踏み込むという前提があった」「彼(アダム・ドライバーという俳優)の目を見せることが非常に大切だった」と、その意義を語っていた。

そして、今回の『スカイウォーカーの夜明け』では、カイロ・レンはマスクの破片をつなぎ合わせて修復していた。J・J・エイブラムス監督によると、ここには「壊れたものを修復することで、元の状態よりもさらに美しいものに変化する様を表現したかった」「あのマスクは、まさに(心も体も)ボロボロのカイロ・レンそのもの」という意味を込めていたのだとか。そのマスクの見た目は、日本の陶器を修復する手法である“金継ぎ”を参考にしているというのだという。

もちろん、それも作り手が目指していたものではあるだろうし、前述したように深い傷を負ったカイロ・レンが“生まれ変わる”ドラマには確かな感動があった。しかし……このカイロ・レンのマスクには、「『最後のジェダイ』がファンからの期待をよくも悪くも裏切りすぎており、投げっぱなしにされた要素も多すぎたために、『スカイウォーカーの夜明け』ではなんとかして文字通りに“修復した(ただしツギハギは目に見えて残る)”」という作り手の苦しい気持ちも反映されているのではないか……と思わずにはいられないのだ。

もちろん、これは筆者の勝手な解釈なのではあるのだが、カイロ・レンがそのマスクを見つめてきたハックス将軍(ファンを象徴している?)に「気になるか?」と問い、そのハックス将軍が「いいえ、よくお似合いです」と“心ここにあらず”な感じに応えることにも、なんらかの含みを感じてしまう。

また、思い返せば『最後のジェダイ』にも、劇中のとあるモチーフへの言及が製作者の意図を反映しているのではないか?というシーンがあった。それは、ジェダイの書物が燃えてしまうことに対して、ヨーダが「カビ臭い書など忘れろ」と(前述したように「失敗こそが最高の教えなのだ」とも)ルークに諭すことだ。

『最後のジェダイ』は前述したように、革新的というだけでなくファンの期待をよくも悪くも裏切る内容だった。それがジェダイの書物を燃やす=『スター・ウォーズ』のファンにとっての“聖書”とも呼ばれる過去の作品を振り返らないという、やはり作り手の意思のようなものを感じるのだ。

しかも今回の『スカイウォーカーの夜明け』ではなぜか燃やされたはずのジェダイの書物も画面に映っている(ルークが一部を取っておいた?)。これも、カイロ・レンのマスクと同様に、なんとかして文字通りに“修復した”象徴なのかもしれない。

次のページでは、改めて今作の“気になる”ポイントについて解説していこう。

リンクをコピー
関連記事関連記事