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【解説】映画『翔んで埼玉』が壮大かつ大真面目な物語である7つの理由

映画『翔んで埼玉』の魅力を解説!

 映画「翔んで埼玉」場面カット

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

2月8日に、フジテレビ系・土曜プレミアムで映画『翔んで埼玉』が“完全ノーカット”(←後に触れるが、これは非常に重要である)で放送される。

同作は2019年に公開され興行収入37.6億円を記録した大ヒット作であり、特に埼玉県内ではシネコンの大きいスクリーンのすべての回が満席になるほどの熱狂を呼んだ。作品評価もおおむね高く、第43回日本アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞を含む最多12部門で優秀賞を受賞した他、海外の上映でも大いに爆笑をかっさらっていったそうだ。

本作がなぜここまでの支持を集めたのか? そこには単純な“おバカコメディ”という枠にとらわれない、明確な“志の高さ”もあったからではないだろうか。それは公式サイトのこの文面を見てもわかる。

「埼玉ディスと聞いてイロモノ映画と思うなかれ。その実態は、壮大かつ大真面目に郷土愛へ向き合う、エンターテインメント超大作なのだ」

その通り、『翔んで埼玉』は“壮大かつ大真面目”なのが美点なのだ。その理由を、やはり大真面目かつたっぷりと、以下より解説していこう。

※以下からは『翔んで埼玉』の展開の一部に触れている。特に重大なネタバレは避けて記載したつもりだが、映画を観たことがない方、予備知識なく観たいという方は注意してほしい。

1:バカバカしい差別と迫害を痛烈に風刺している

映画「翔んで埼玉」場面カット

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

本作が何を描いているか。もうそれは誰の目にも明らかに“差別と迫害”だ。

劇中の名門学園では“Z組”という埼玉県民が不当な差別を受けているクラスがあり、埼玉県民は通行手形がないと東京に入ることもできない。埼玉はバカにされるか蔑まれて当然という認識も強く、劇中では「埼玉なんて言ってるだけで口が埼玉になるわ!」「埼玉県人には(病人に医務室を使わせないため)そこらへんの草でも食わせておけ!」というとんでもないセリフも飛び出している。

実にバカバカしい。バカバカしいが、人類の歴史上存在する、普遍的な差別と迫害も実は似たようなものだったのではないだろうか。例えば黒人差別では、奴隷制度により人間とも思われないほどに虐げられた人々もいた他、「黒人には白人と同じトイレを使わせない」ということが当たり前になっていたこともあった。現代の日本でも、医療大学で女性受験者を一律減点するという、信じがたい女性差別もニュースとなった。

恐ろしいのは、こうした差別と迫害が、往々にしてその狭いコミュニティ(広く言えば地域や国)で“常識”になっており、誰かがその制度や認識についての変革を行わなければ、ずっと続いていたかもしれない、ということだ。歴史を振り返れば間違っていると断言できることでも、当時の差別者(および被差別者)にとっては、それはなんら不思議ではない、大真面目なことだったのだろう。

しかし、『翔んで埼玉』における埼玉県民への差別と迫害を見たらどう思うだろうか? 前述した通り、どこからどう見てもバカバカしい、常識から外れまくった愚行の極みなのだ。しかし、その“生まれ育った地による差別と迫害”という問題そのものは、やはり現実の世界に存在していた(る)ものでもある。

つまり、本作で描かれる“埼玉ディス”は、「(現実にもある)差別と迫害ってバカだぞ!」ということを、コメディとして相対的に見せ、痛烈に風刺していると言える。そして、不当な差別と迫害が常識になっている社会へ(人類の歴史上でも何度もあった)変革をもたらすまでを描いたエンターテインメントにも昇華されているのが、この『翔んで埼玉』なのだ。

2:俳優の大河ドラマ並みの真剣な演技があってこそ笑える

映画「翔んで埼玉」場面カット

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

『翔んで埼玉』が差別と迫害というセンシティブでもある題材を扱いながらも、コメディとして気兼ねなくゲラゲラと笑えるということにも、明確な理由がある。その1つが、演じている俳優が“真剣そのもの”であるということだろう。

例えば、「埼玉県のシンボルのシラコバトつきの草加せんべいを踏め(踏めなかったら埼玉県民ということが証明される)」という世にもアホらしい踏み絵の場面でも、GACKT演じる主人公は本気で葛藤し苦渋の表情を浮かべる。さらに“サイタマラリヤ”という病気を知った時には、彼は「なんだそれは…!」とマジで驚く。観ているこっちは大笑いである。美少年をオーバーな演技を含めて演じきった二階堂ふみや、俳優としての個性が強い伊勢谷友介もいたって真剣であることは、言うまでもない。

よく考えれば、GACKTが40代半ばなのに高校生役を演じているというのも、無理がありすぎる。無理があるはずなのだが、日本ではありえない豪華な貴族の衣装を身にまとい、そのお姿がマジでお美しく、演技もガチとくれば、「このGACKT様がいい」「GACKT様以外にこの役は考えれらない」とまでなる。年齢など些細OF些細にしてしまえる、「追われる身になったんだからその衣装は脱げよ」というツッコミどころも許せるほどの説得力をGACKTが体現しているというのも、本作の美点だ。(“東京の空気当てゲーム”をやっているのもGACKTがテレビ番組「芸能人格付けチェック」で大活躍していることの反映なのかもしれない)

実際に武内英樹監督は、俳優たちに「とにかく真面目にやってください、NHKの大河ドラマのつもりで、一切ふざけなくていいです」などと演技指導をしたのだそうだ。“バカバカしいことを本気でやる”というコメディの基本を、『翔んで埼玉』に出演した豪華キャストたちは忠実かつ真摯にやりきっている、と言っていいだろう。

余談であるが、武内英樹監督は2012年に『テルマエ・ロマエ』という、古代ローマの浴場設計師が現代日本にタイムスリップしてくるというコメディ映画を手がけていた。こちらも、やはりローマ人役(と言い張っている)の阿部寛のリアクションが「客観的に見ればめちゃくちゃおかしいのに当の本人は真剣」ということが笑いにつながっていた。この“ギャップギャグ”は老若男女、グローバルに受け入れられる。その笑いは、やはり生身の人間(俳優)の熱演があってこそだ。

3:埼玉という自虐ギャグが許される場所も重要だった

映画「翔んで埼玉」場面カット

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

よく考えれば、前述した(草加せんべいではない)踏み絵は隠れキリシタンをあぶり出すために使われた非道な方法であり、(サイタマラリヤではない)マラリヤは恐ろしい病気だ。普通であれば笑えるはずもないモチーフなのに爆笑できるというのは、絵面のバカバカしさと、俳優たちの熱演はもちろんこと、埼玉が“イジっても許される”という前提があったことにも理由がある。

言うまでもなく、世の中の差別と迫害と苦しんできた人々、そのために命を落とした人々は世界中にいる。そのセンシティブな問題をコメディとして茶化すなど、普通に考えれば論外だ。

しかし、埼玉という場所に腰を据えれば、それが許される。なぜなら、都道府県別魅力度ランキングで例年ワーストを争い、女性の貧乳率は全国1位、これといった観光名所もそんなにない、という事実そのものが“自虐ネタ”として受け入れられる土壌があり、それを『翔んで埼玉』では過剰な差別と迫害というギャグへと転換しているからだ。

とにかく、『翔んで埼玉』は、世の中にはびこる差別や迫害というセンシティブな題材を扱いながらも、俳優たちの大河ドラマ並みの真剣な演技および、埼玉という“イジりが許される場所”のおかげで、奇跡的にも気兼ねなく笑える。この構造は一種の“発明”であり、豪華キャストを集め、バカバカしくもそれなりの説得力のある世界観(セットやエキストラ)を、十分な予算をかけて日本映画で構築したということは、賞賛されてしかるべきだろう。

そして、その埼玉の自虐ギャグが最高潮に達するのが、はなわが歌う「埼玉県のうた」が流れるエンドロールだ。個人的にはこの世で最高のエンドロールの映画は『バクマン。』だと勝手に思っていたが、『翔んで埼玉』はそれに匹敵する。クライマックスでは埼玉についての“良いところ”のフォローもあったのに、最後にはやっぱり自虐ギャグでオトすというのも最高だ。土曜プレミアムでの地上波放送が本編ノーカットではなく“完全ノーカット”という触れ込みなのも、このエンドロールをしっかり流すということの意思表明だろう(地上波ではエンドロールがカットされることがほとんど)。

4:笑いが思いがけない感動に転換していく

映画「翔んで埼玉」場面カット

(C)2019 映画「翔んで埼玉」製作委員会

さらに『翔んで埼玉』で素晴らしいのは、差別と迫害のバカバカしさにゲラゲラと笑っていると、それが思いがけない感動へと転換していくことだ。白眉となるのは、前述したZ組に身を置き、ひどい扱いをされていた生徒(加藤諒)が、本音を吐露するクライマックスだ。

彼はどれだけ酷い環境にいても、へらへらと笑ってごまかした上に、生まれ育った埼玉という地をも卑下してしまっていた。ここまで極端ではなくとも、何かの理不尽な扱いやルールへの憤りを、黙って受け入れるか、同じように笑ってごまかしていた、本音とは違う建前を言っていたという方は少なくないだろう。

これは、人間としての最低限の“尊厳”の物語でもある。いかに埼玉という場所がイジってもOK、自虐ネタを受け入れられる土壌があったとしても、その誇り、郷土愛を持っていたいという“一線”は確実に存在している。それは埼玉に限らず、全ての人が持つそれぞれの絶対的な価値観にも当てはまるはずだ。そこに改めて気付かせてくれることに、本作最大の感動がある。

また、「親子三代に渡り埼玉から地下トンネルを海まで掘り続けて埼玉県産のサザエを名物にしようとする」という劇中でも「アホなのか?」とツッコまれる計画でさえも、クライマックスの戦いでは肯定されることに感動があった。その“1つのことをやり遂げようとする精神力”は、確かに賞賛されるべきことだ。

次のページでは、本作で当たり前のように描かれている“ボーイズラブ”や、現代パートの存在意義などについて解説していこう。

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