是枝裕和監督の『誰も知らない』は“なあなあ”の恐ろしさと“救い”を描いた映画だ【月イチ紹介名作映画】

公開日:2019年8月28日

今から15年前の2004年8月に公開された映画『誰も知らない』を紹介

本連載では、月イチで名作映画を、過去に公開された月に合わせて解説・考察していく。

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4回目となる今回は、今から15年前の2004年8月に公開された『誰も知らない』。主演の柳楽優弥が史上最年少の14歳でカンヌ国際映画祭主演男優賞に輝いた本作は当時に大きな話題を集めたため、今でも鮮烈な記憶として残っているという方は多いだろう。

本作が題材としているのは、1988年に実際に起こった“巣鴨子供置き去り事件”。母親が4人の子供を置き去りにし、その全員の出生届けが出されていなかったという衝撃的な出来事を、(詳しくは後述するが)恐ろしいほどのリアリズムで描いているのが最大の特徴だ。

映画の冒頭では「この映画は、東京で実際に起きた事件をモチーフにしています。しかし、物語の細部は登場人物の心理描写は全てフィクションです」という是枝裕和監督のメッセージが添えられている。

このメッセージが意味しているのは、単に「実際の事件に囚われずに自由に物語を構築したい」といった作り手の都合によるものではないだろう。ディテールを全てフィクションとしたことは、観た人が様々な解釈ができる豊かな内容になっただけでなく、個人的には“救い”の物語としても解釈できるようになったと支持したいのだ。

以下からはネタバレにならない範囲で、具体的な『誰も知らない』の魅力と奥深さを記していこう。

まるで“現実そのまま”の子供の姿が映し出されているのはなぜか?

是枝裕和監督作品を観て、誰もが感じるであろうことは、子役の演技の自然さだろう。いや、もはや“子役”や“演技”という言葉を使いたくなくなるほどに、普段から目にしている現実そのままの子供の姿が映し出されている。

これは、是枝監督が子供に台本を渡さずに口頭で伝える他、現場でアドリブによる自然なやりとりが発生すれば脚本にあったセリフや要素を(是枝監督自身が脚本も執筆しているため)遠慮なく切り捨てるという演出方法を取っているからだろう。

この『誰も知らない』では、次男を演じていた子供が「ラジコンで遊んでいいよ」とだけ監督に聞かされ、そこに長男役の柳楽優弥がやってきて急に怒っため、彼は本当に怒られたのだと心配してしまい、その日ずっと柳楽優弥の背中をずっと見ていた(その日の撮影終わりには仲直りしていた)というエピソードもあったそうだ。

『誰も知らない』で何よりも重要なのは、そのように子供の演技を演技に見せないように演出し、美術や小道具や画づくりにもこだわることで、子供たちが置き去りにされる異常な生活に圧倒的なリアリズムを作り出すことと言っていいだろう。

その生活環境が徐々に破綻を迎えていくことは、画面の端々に写る未払いのガスや水道の請求書、小さくなっていくクレヨン、汚れていく部屋や服の様子などで痛烈に伝わるようになっている。果ては、柳楽優弥が当時に成長期であり撮影の1年間で身長が伸びて声変わりしていることも劇中の時間経過とリンクしているように見えるのだ。

是枝監督は「作家が世界を支配するのではなく、世界の不自由を受け入れるという、この諦めの態度。そして、その不自由さを面白いと思える感覚」を重視しているという。この言葉は、是枝監督がドキュメンタリー作品の出身であり、創作した物語においても全てを統制するのではなく、人間の人間としての姿を不自由なままに、それこそドキュメンタリックに映し出したいという作家としての信条そのものだ。

しかも、その人間そのままの姿から自然に発生したかのように見えるセリフや何気ない仕草は、「あの時のあれはこのことを意味していたのか!」と後で驚きを与える、物語上の伏線としても見事に機能している。

例えば、この『誰も知らない』のオープニングで長男が“スーツケースの感触を確かめるように触れている”であったり、長女が“母親に髪を溶かされながらもマニキュアを握っている”などといった日常の延長線上にありそうなことが、往々にして観客に後で強いショックを与える(それのショックは劇中の登場人物の気持ちとリンクしている)ように計算されているのだ。

是枝監督が世界的に高い評価を得ているのは、(乱暴な言い方ではあるが)ありのままを映すドキュメンタリーと、フィクションとして創作された物語の両方の魅力と面白さを、映画という媒体で最大限に表現していることが大きな理由だろう。

ちなみに、是枝監督は子供に台本を渡さずに口頭で伝える演出をしていると前述したが、この『誰も知らない』では育児放棄をする母親役のYOUにも台本を渡さなかったのだそうだ。

それはYOU自身が本格的な映画出演は初めてであり、彼女自身が「セリフ覚えたりするの嫌いなんですよね」と言っていたこともあったようだが、彼女の役が”精神的に幼い”からこそ、是枝監督はYOUにも子供たちと同じように台本を渡さなかったとも考えられる(是枝監督は後年の『万引き家族』でもダメな父親役のリリー・フランキーにも台本を渡さない提案をしていたことがあった)。

まるで“子供の友達”のような親しみやすさがある一方で、背筋が凍るほどに無責任な態度や価値観を見せるYOUの母親の姿に真実味を感じさせるのも、この是枝監督の演出のおかげなのだろう。

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なぜ劇中の登場人物を断罪しないのか?“なあなあ”の恐ろしさとは?

是枝裕和監督はこの『誰も知らない』をカンヌ国際映画祭で上映して以来、観た人から「あなたは登場人物に道徳的なジャッジを下さない。子供を捨てた母親さえ断罪していない。それはなぜか」とよく問いかけられていたのだそうだ。

このことについて、是枝監督は次のような信条を語っている。「映画は人を裁くためにあるのではないし、監督は神でも裁判官でもない。悪者を用意することで物語(世界)はわかりやすくなるかもしれないが、そうしないことで逆に観た人たちにこの映画を自分の問題として、日常にまで引きずってもらえるのではないかと考えている」と。

『誰も知らない』に限らず、是枝監督作品はこの言葉通りに「どちらかが正しくてどちらかが間違っている」という善悪の二元論で語ることはしていない。社会的な問題として取り上げられた事件を扱ったとしても、主観的または独善的な視点を入れることなく、多角的かつ客観的に物事を“観察”できる、観客に解釈を委ねるという作品を作り続けていると言っていいだろう。

つまり“何を汲み取るかは人によって大きく異なる”というのが是枝監督作品の大きな特徴かつ魅力であり、その作家としての誠実さそのものを示しているのだが、それを前提として筆者はこの物語が「“なあなあ”の恐ろしさ」を描いているとも解釈している。

なぜかと言えば、劇中では子供たちが異常な置き去り生活を続けていることを“気づけたはず”、もしくは気づいているのに“なあなあで済ませてしまっている”周りの人物がたくさん登場するからだ。

仕事をしているだけで精一杯に見えるコンビニの女性店員、同級生からいじめられていた女子中学生、長男が金銭の援助を申し出るために会いに行った(子供たちそれぞれの)父親たち、長男がゲームセンターで仲良くなった少年たちや、大家や近所に住む夫婦もそうだ。

彼ら彼女らは“いつの間にか”子供と仲良くなったり、その置き去り生活を罪悪感のないまま“続けてしまう”ための手助けをしてしまっているとも言える。その結果として、劇中では(現実の事件においても)最悪と言っていい事態を招いてしまうのだ。

何より、4人も子供を産んだのに出生届も出さず学校にも通わせず、成長した長男以外は近所にその存在すら知らせようともしなかった、その後もお金を送るだけで長男に弟と妹の世話を任せっきりにする母親が最も“なあなあ”だ。

人間は通常であれば子供を産み育てることに途轍もない責任感を持ち、そのために様々な気を使って、尋常ではない努力をしているのだが、そうではないことがここまでの事態をもたらす……という様はほとんどホラー映画のようにも思える。本編を観て、自身の子供はもちろん、近所の子供との接し方に危機感を覚えたという方もきっと多いことだろう。

事実、是枝監督は『誰も知らない』というタイトルについて「本当に誰も知らないのか?知らないフリをしてるだけではないか?という問いかけの意味もある」と語っている。何かの問題について知らないでいること、もしくは知らないように振る舞ってしまうことはある種の“罪”とも考えられるだろう。

しかし、前述したように「誰々が悪い」と劇中で断罪することは一切ない。そうして単純な悪を設定しないことで、是枝監督の言うように“自分の問題として日常にまで引きずってもらえる”ほどに心に重くのしかかるものがあるのだ。

救いの物語でもある理由とは?タイトルには逆説的なメッセージもあった?

前述したように『誰も知らない』というタイトルには「知らないまたは知らないフリをしているのではないか?」という問いかけを含んでいるのだが、同時に是枝裕和監督は「誰かに知ってもらうこと、少しずつでも知ろうとしてあげること、その関係性は大事なことだと思う」とも語っている。

この言葉を踏まえるのであれば、この『誰も知らない』は恐ろしい話であると同時に、“救い”の物語でもあるとも解釈できるのではないだろうか。

なぜなら、劇中に登場するいじめられた少女は、少なくとも「少年を知ろうと努力している」からだ。コンビニの女性店員も、万引きの間違いを(店長からもっと早く言ってよと怒られたとしても)指摘して「少年のことをしっかり“見て”」いた。

さらに、前述したように“いつの間にか”子供と仲良くなったり、その置き去り生活を罪悪感のないまま“続けてしまう”ための手助けをしてしまっている者たちの行動は、子供たちにとってはひとまずは生きるための希望になっていたとも言い換えられる。

しかも、現実の巣鴨子供置き去り事件での長男は凶暴な性格であり妹には暴行を加えていたのだが、映画での長男はほぼ一貫して妹と弟を心から大切にしている優しい少年として描かれているのだ。

そう考えると「現実の悲惨な事件の渦中にあった子供たちを、せめてフィクションの中だけでも、刹那的であっても救ってあげたい」という作り手の意思、または“願い”のようなものを感じる。実際の事件には救いはなく、この映画での結末そのものにも絶対的な救いはない。

それでも、絶望の中に一筋の光が射すような、希望と幸福、そして再生の物語を見出せるのが、この『誰も知らない』なのだ。劇中に登場する“サンタクロースの話題”や、長男が値引きを待って買っていた“クリスマスケーキ”はその(刹那的な)希望や幸福の象徴とも言えるだろう。

そのタイトルには、「実は誰かが子供たちのことを知っていた」そして「現実でも何かを知ろうとする意思を大切にしてほしい」という逆説的な意味とメッセージが込められているとも、筆者は解釈したいのだ。

また、前述した生活描写のリアリズムにも関わることだが、是枝監督は(監督それぞれで十人十色の演出があることを前提として)演出の意義についてこうも語っている。

「映画で描いた前の日も次の日も、その人間たちがそこで生きているように見せたい。劇場を出た人が、映画の物語の内部でなく、彼らの明日を想像したくなるような描写のために、演出や脚本も編集も存在していると言っても過言ではない」と。

“人間たちがそこで生きているように見える”、“彼らの明日を想像したくなる”というのは新聞やニュースの報道では到底知り得ない感覚だ。それを教えてくれるということこそに、映画という媒体の意味がある。

是枝監督最新作『真実』は10月11日公開!

真実のメインビジュアル
photo L. Champoussin ©3B-分福-Mi Movies-France 3 Cinéma

『誰も知らない』でその名が広く知られるようになり、2018年に『万引き家族』でカンヌ国際映画祭にてパルムドール(最高賞)を受賞した是枝監督は、名実ともに世界的な映画監督となった。その是枝監督最新作『真実』が、2019年10月11日(金)より公開予定となっている。

本作は構想に8年をかけており、全編をフランスにて撮影した自身初の国際共同で製作した映画となる。主演は『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』などで知られるフランスの名女優カトリーヌ・ドヌーヴで、彼女は劇中で自身のイメージと重なる“国民的大女優”を演じるのだそうだ。

物語は、その大女優が出版した自伝本が、次第に母と娘に隠された、愛憎渦巻く“真実”を明らかにしていくものとなっているのだとか。さらに世界へと躍進した是枝監督が、ネクストステージに到達した作品になっていることを期待したい。

参考記事:是枝裕和インタビュー|Dazed Japan
参考図書:歩くような速さで 是枝裕和著

ヒナタカ

>インディーズ映画や4DX上映やマンガの実写映画化作品などを応援している雑食系映画ライター。過去には“シネマズPLUS”で、現在は“ねとらぼ”や“ハーバー・ビジネス・オンライン”などで映画記事を執筆。“映画レビューブログ”も運営中。『君の名は。』や『ハウルの動く城』などの解説記事が検索上位にあることが数少ない自慢。

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